2008年06月19日

【若槻回顧録】「昭和」という年号2

「昭和」という年号には“世界平和 万民安寧”という意味込められていたが、その意に反して激動の時代を辿っている。
新天皇が即位した後、真っ先に新しい年号をどうするかという話し合いがなされた。枢密院で決定したようだが、当時内閣総理大臣を務めていた若槻礼次郎がその会議でのやり取りをこう書き記している。


●若槻礼次郎の回顧録より一部抜粋
 昭和という年号は、政府の提案であったが、それは宮内省の御用掛が調べたもので、書経の『万邦協和、百姓昭明』から取ったものであった。ところがこれに対し倉富勇三郎顧問官が私案を出し、「上治」としてはどうかと云い出した。それは易経の中の言葉だという。倉富のいうには、「万邦協和」うんぬんの言葉は、書経中の尭典(ぎょうてん)にある。尭は禅譲の天子で、位を子孫にお譲りにならないで、舜(しゅん)に譲り、舜は禹(う)に譲って、今日でいう共和政治のようなものだ。だから「昭和」はいかん。それより「上治」のほうがいいというのであった。これは後の話だが、西園寺公がこのことを聞かれて、日本の元号には、今まで書経から出たものが沢山あるじゃないか。それを今になってあれやこれやということはない。書経で宜しいと云って笑われた。とにかくこの時の枢密院会議は、倉富の説が出ただけで、誰も異論がなく「昭和」に決定した。あとで調べて見ると、中国の五代あたりに、「上治」という年号があったことが判り、それを採らないでよかったということになった。
 これも西園寺公の話だが公は年号などによほど関心をもっておられ、年号は画の少ないものが宜しい。慶応何年と書くのは、一般の人にはむずかし過ぎる。「明治」とか「大正」とかは、誰にでも直ぐ書ける。「昭和」も字画が少なくていいと云っておられた。それに公は、平和とか調和とかいう「和」の字に重きを置かれ、「昭和」という年号を喜んでおられたようである。



あの時代も平和を望んでいたけれども、戦争が起こった。
(。-`ω-) 「平成」は俺でも書ける・・・




tmatsu0405 at 23:38│Comments(0)TrackBack(0)clip!戦前昭和史 

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